――誰かの声が聞こえた。うっすらと。消えゆく意識の中で。
まるで私の意識を引っ張り上げるかのように。
『――――流されちゃ駄目だ』
流される?
『飲み込まれる前に、早くそこから出るんだ』
飲み込まれる?
『キミは、』
途端、がくんと身体が落下するような感覚に襲われて、空気を吸っていたはずの全呼吸器に何かが侵入した。驚きと息苦しさで一気に意識が覚醒する。水の中だ。どうして、いつの間に。
(苦しい)(嫌だ)(戻ってきて)(痛い)(おいていかないで)(怖い)(助けて)(一緒にいたい)(嫌だ)(死にたい)(辛い)
心、というよりも頭の中で濁流のように流れるその感情。押しつぶされそうなその重さ。それは私のモノなのか、そうではないのか。飲み込まれていく私には、考えることなど出来なかった。もがけばもがくほど、どんどん沈んでいく。もがいてももがいても、感情と水の中から出られない。
(死にたい)(戻ってきて)(生きて)(痛い)(苦しい)(もう嫌だ)(辛い)(独りにしないで)(死なないで)(死なせて)
もう、いいや。諦めよう。たくさんの感情と一緒に、沈もう。そう思って力を抜いた時――
『キミは、死んでいないんだから』
先程の誰かの声が、鮮明に聞こえた。たくさんの感情が霧散したかのように、冷静さを取り戻した。
(――――まだ、生きていたい……!)
ゴボッと水の泡を出しながら、私は再びもがいた。上も下もわからない。もがいて、もがいて、ようやく光を見付けた。そこに向かって進んで――
「ゲホッ……が……っ」
水面から顔を出した瞬間に汚い咳が出た。喉の痛みで涙が出てくる。何も見えない。瞼をこすって、視界を取り戻そうと試みる。
滲んだ世界には、人間が一人いた。
「よかった。浮上出来たんだね」
「……だれ……?」
滲んだ目では、何も認識なんて出来なかった。

その人間――三十代か、もしかしたらまだ二十代くらいの、眼鏡を掛けた男性だった――の手を借りて水から出て、違和感を覚えた。何も濡れていない。着ていた学校の制服も、髪も、身体も。水の中にいたとは思えないほど、綺麗なままだった。苦しさも、滲んだ世界も、確かにあったはずなのに。全部嘘のように痕跡がなかった。
「驚いたよ。スタジオでラジオの準備してたら、キミが川で流されてるんだもん。心配しちゃった」
男性は笑いながら私に言った。どこかあっけらかんとしていて、心配したというわりには、あまりその様子が伺えない。
「川?」
「それ」
それ、と男性が示したのは私の背後。綺麗な水が緩やかに流れていて、向こう岸は少しだけ霧がかっている。
「え、でもそっちも川、ですよね?」
そっち、と私が示したのは前方。男性にとっては背後。そこにも川が流れていて、向こう岸は同じく霧が出ていてよく見えない。
「あー、ここ、川の真ん中だからね。中洲って言ってわかるかな? とりあえず、川の中にある島なんだ。上流側にボクの家があって、下流側にスタジオがあるんだ」
確かに、左右にそれぞれ小さな小屋があった。スタジオ……ラジオの収録って言ってたっけ。
「ここに住んでるんですか?」
「そう。ボクは特例でね。本当はそっちに渡らないといけなかったんだけど」
そっち、というのは、私の背後の岸。
嫌な予感がした。
「ここは、どこなんですか?」
今更ながら、私は訊いた。少しだけ声が震えた私と違って、男性は特に表情も声色も変えることなく、答えた。
「ここは、此岸と彼岸の境目。ボクはもう死んだ人間なんだよ」
「死ん……、」
「ボクは死んだけど、キミはまだ死んでないよ」
じゃあ、私は、
「でも、生きてもいない。ここにいるから。此岸でも彼岸でもない、ここに辿り着いたから」
一体、
「私、は……どうして、ここに?」
〝何〟なんだろう?
唐突に訪れた不安に、私は泣きそうな気持ちで男性を見た。そこに答えがあるかなんて、わからないのに。
男性は少しだけ考えて、それから何か思い付いたように頷いた。
「じゃあ、とりあえずボクの手伝いをしてみる?」
「へ?」
突拍子もない提案に、私は間抜けな返事をしてしまった。
「ボクはラジオ番組『ミッドナイト・ステーション』のDJカワイ。愛称はカワやん。キミの名前は?」
「え、と……三枝弥生(さえぐさやよい)、です」
「やよいちゃんね。緊急アシスタント、どうぞよろしくお願いします」
カワイさんはそう言って笑った。つられて私も笑ったら、さらに嬉しそうに笑ってくれた。